練習を終えて、どこにも寄らずに真っ直ぐ帰宅する。と一緒に暮らす様になってからはチームメイトとご飯を食べに行くことが急激に減った気がする。そして、若菜がオレたちの家に来ることが急激に増えた。
「の料理が美味い。家に帰っても一人だから淋しい」とかなんとか騒ぎながらやってくる。最近別れたらしい彼女とはたった一ヶ月の付き合いだった。
そんなんだから「遊び人」だのと新聞に小さく取り上げられてチームから罰金を科せられるんだ。アホJリーガーとしか言い様がない。
今日は絶対に来るなとハッキリ言ってから愛車に乗り込んだ。いくら若菜でも、来ないはずだ。これでノコノコと来るようなことがあれば、オレは容赦なく練習から削りに行ってやろう。
若菜一人いなくなっても、ソノ穴は充分過ぎる程埋められる分厚い層がある。若菜に頼る様なチームではないと信じている。
ドアを開けるとが笑顔で「おかえりー」と玄関を覗き込んでくる。ただいまと返してリビングへ向かう。「コーヒーと紅茶どっちがいい?」と決まってこの台詞を言う。帰って来たんだと実感できる二つ目の言葉だ。
この間は、レモンティがいいと選択肢にないものを言ってもは嫌な顔一つせずにレモンティを淹れてくれた。
目の前のテーブルに静かに置かれたのはミルクが少しだけ入ったコーヒー。以前は完全にブラックで飲んでいたけれど「疲れたときは糖分だよ!」とに言われミルクだけ追加されることになった。
一口、コーヒーに口をつけると、隣で同じくコーヒーを冷ましながら飲んでいるがおもむろに切り出した。
「あのね・・・一人の時間が欲しくなるときってない?」
「は?」
「いや、翼にも一人の時間は必要なんじゃないかと思って」
「“にも”ってどういうわけ?は一人の時間が欲しいっていうこと?」
ダメだ。わかっている。にマシンガントークをぶつけても意味はない。さっきの言葉はきっとオレを思ってくれての一言だろう。
なにを言われたんだ。誰になにを言われた。になにかを吹き込んだまだ解らぬ奴に腹が立つ。
「今日どっか行った?」
急に切り替えられた話題とオレの口調に驚いたのか、少しの沈黙の後「うん。でかけたよ」とおずおずと切り出してきた。ソコでなにかあったに違いない。
「どこ行ったわけ?」
「翼の練習場」
「・・・オレの練習場?」
今度はオレが驚かされるハメになり、確認するように復唱する。オレの練習場。復唱したソノ言葉には小さく頷いた。他には?別の場所へは行ってないのか。ソノ言葉にはは首を横に振っただけだった。
「・・・日本代表って大変なんだね」
「なんで?」
「梶さんに色々聞いたの。すごくしんどくなった時は何もかもが嫌になって、独りになりたいときもあったけど、家に帰れば奥さんがいるし、子供だっているし・・・。みんな心配してくれるって。
でも、ソレが逆に嫌になるときもあるんだって。言葉じゃ言えないみたいだけど」
確かに梶は悩んでいた。結果、日本代表を引退してJリーグに絞った。ソレもありだと思う。それからの梶は吹っ切れた様に表情も明るくなった。梶の本来の突破力に磨きがかかり、凄みを増してきた気がする。
日本代表にとっては梶の抜けた穴は大きいかもしれないが、ガンバ大阪にとってみれば喜ばしいことだ。
でもソレは梶の場合であって、オレが独りになりたいと思うとは限らないだろう。
「梶さんって奥さん大事にしてる人だから、そういうの聞いて驚いて。翼にもあるんじゃないかと思ったの」
「・・・独りの時間が欲しいとは思ってない。もっとと一緒にいたいくらいだし。それより練習場に来たなら声ぐらい掛けてよ」
「梶さんと話してたらなんか考え込んじゃって・・・逃げちゃった感じで。明日、梶さんに謝っておいてほしいんだけど・・・。悪いことしちゃったし」
「いや、懲らしめておくよ。に変なこと吹き込んでって。なに考えてるわけ!?って」
「だ、ダメだよ・・・ッ!なに言ってるの。梶さん年上でしょ!?」
慌てたように目を大きくして「ダメだよ!」と連呼する。言わないよ、とオレが笑うまでは慌てていた。ちゃんと謝っておくと言えば落ち着いたようで「ありがとう」と小さく笑った。
「勝手に1人で変な心配してんなよ?オレが黙って我慢してると思うわけ?にはマシンガンはぶつけたりしないけど、何気なく言うかもしれないし・・・」
「私は家ではリラックスして欲しいと思ってるよ。ソノためならなんでもするし。でも、翼の心の中はわからない・・・。言葉にしないと伝わらないもん」
「結局、はどうなの?」
「私?」
が返事をくれるまでの短い沈黙すら嫌だった。「1人になりたい」と言われたら、オレは受け入れられるだろうか。マリッジ・ブルーになっているとは思えないが、のことだ。上手く隠している可能性だってある。
上手く隠されているオレもどうかと思うし、自分に腹立たしく思う。
結婚する前よりも長く一緒にいるはずなのに、今の方がもっと一緒にいたいと思ってしまう。朝の「いってらっしゃい。練習がんばってね」を言ってから「おかえり。
お疲れさま」までの間は不安がないと、ハッキリ言い切ることはできない。妙に心配になってしまう。何故かはわからないが、許されるのなら練習場まで一緒に連れてきてしまいたい。
だから、ソノ分帰って抱き締めると安心するし、が甘えてくると幸せだと感じる。キスをしたときの少し照れたは自分のモノだという独占欲が増してくる。
沈黙を破った答えは「1人になりたくない」という嬉しい答えだった。
「1人になんかなりたくない。翼がお仕事に行くのも、やだ・・・」
「もっと早く気付けばよかったな。女の人はマリッジ・ブルーがあるからさ。オレなりに気を遣ってたつもりだったんだけど。いらない心配してたかもね」
「マリッジ・ブルーなんて考えてなかったや。新婚なのに翼が足りないとか切ないよ」
「今日からそんなこと言わせないよ?」
結局はお互い、相手が大事すぎだったということだ。言葉にして、ようやくお互いの心がわかる。言葉にするのが難しいときもあるけれど、オレはの言葉をゆっくりと待とう。
自分の言葉で遮らずにの言葉を待つ。たとえ、たどたどしくたって伝えるということに意味があるのだ。
穏やかだった雰囲気が突然のインターホンの音で遮られた。まさか。画面を覗くとそのまさかがカメラを見つめて立っていて、普段よりもスリッパの音を立てて玄関へ向かった。
が「翼?」と不思議そうな声音でオレの名前を呼ぶのと「お邪魔しまーす!」と苛立つくらい元気のいい若菜の声が被った。答えがわかったは笑っている。
来るなって言ったよね?と腕を組んで若菜の前に立ちはだかっていると、後ろからが抱きついてきて、顔だけ横に傾けて若菜に笑いかけている。
「いらっしゃい、結人くん」
「さん、旦那どうにかしてくださいよ」
「いいじゃん、翼。来ちゃったんだもん」
「来ちゃったんだもん」
「のマネすんな。可愛くともなんともない。むしろキモチワルイから止めてよね」
「これでもガンバん中じゃ結構、女の子のファンいるんだからな!椎名と比べんのが間違ってんだよ」
どうやって追い返そうか考えていると、ふと今まで抱きついていたの温もりが消えた。「どした?」と振り返るとはリビングへ向かって上を見ている。確かあの辺りには時計がある。
「うそ!?」
いきなり大きな声を上げたに驚いてオレもリビングへ向かうとは時計を指差して「6時だった・・・!」と呆然としている。若菜が「なに、なに!?」と遅れてやってきた。
・・・家に上がらせてしまったのは仕方ない、見て見ぬふりをしてやろう。
「・・・6時だったよ!」
「6時だけど?」
「なんか見たいテレビでもあったのか?」
「違うよ!結人くんと一緒にしないでよ。晩御飯の準備なにもしてない・・・」
なんだそんなことか。あまりにもが呆然としているから、一体何があったのか心配した。今までソファでずっと話しこんでいたから、仕方ない。
だからといって、別にに怒るわけでもない。
「なんで結人くん今日こんなに来るの遅いの?」
「雑誌の取材受けて、ファンサービスして、風呂入ってから来たら、こんな時間になってた感じ」
「私の中で結人くん時計が出来ちゃってるの!結人くんがいつもくる時間に晩御飯の準備したらいい感じで夜になってるのに・・・!」
「なに、なに。オレ、椎名家の中心になっちゃってます?」
「なっちゃってますー」
ケラケラと笑う2人になんだか呆れてしまって、1つタメ息をついた。そして、ソファにどかっと座り、若菜を見上げる。また腕を組み晩御飯食べたら帰れと言うと予想通り若菜は嬉しそうに笑った。
ソノ隣でまで嬉しそうに笑っている。ただし、泊まらせはしないからねと条件をつけた。
「の旦那は良い旦那だ」
「今頃気付いたの?遅いなー」
「てか、椎名夫婦が羨まし――!!」
爪の先まであなたの愛で満ちてる
(結人くんのお嫁さんになる人は大変そうだなあ・・・)
081116 家長碧華
タイトル提供:as far as I know