『W杯最終予選がいよいよ始まります。相手は短くパスを繋いでくるのが特徴で・・・』

TVに映っているアナウンサーが少し興奮しているようにしゃべっている。 その隣に座っている元日本代表の選手は冷静に見える。

毎回、大事な試合になります、という言葉を使うこのアナウンサーは個人的に好きではなかった。


「やっぱり観に行けばよかったかな」


この試合のチケットは持っていた。翼が2枚、用意してくれたチケットだ。私がこの2枚をムダにしたせいで、誰も座ることのない席が生まれた。 満員にしてあげられなくて、ごめんねと心の中で謝る。

最近、翼の試合を生で観ることが恐いと感じてしまう。

どこからともなく聞こえてくる野次。スタジアム全てを包みこむ、タメ息。シュートを外したときの落胆の声。 これらはいくら試合に勝っていようと聞こえてくる。

それがなぜか「恐い」と感じる。だから、スタジアムへは行かず、嫌いなアナウンサーの実況を聞きながらのTV観戦を選んだ。

翼は私がスタジアムに恐れていることを知らない。私が言っていないから、知らなくて当然だ。 言う気もなかった。言ったから、どうこうなるものでもない。私が乗り越えればいいだけのはなしだ。

スターティングメンバーの中に椎名の文字を見つける。不動のCB。 守りの要と言っても過言ではない。そこまでメディアに言わせる実力のある翼の試合を恐いと言う人など私だけだろう。

逆に、翼が試合に出ていないと恐いと言う人はきっとたくさんいる。そっちの方が正しいのだ。

円陣を組んで一斉に弾ける様にピッチに広がって行く日本代表の選手たち。

画面に翼が映し出される。 気の引き締まった表情をしていて、この試合の大切さがアナウンサーのちっぽけな言葉よりも鮮明に伝わってくる。


「・・・はあ」


無意識にタメ息をついている私はなんなんだろう。本当に幸せが逃げて行く気がしてならない。


「なんでかなあ」


なんでだろう。翼の試合が恐くなった理由は。さっき、野次とかタメ息とか言ったけど、ソレだけじゃない気もする。 サッカーが私と翼を引き剥がそうとしているとかそんなバカなことは言わないし、思いもしない。

簡単に言ってしまえば、わからない。なにか自分が他人事の様に思えて仕方なく、何もかもがわからないのだ。 わかっているのは、今日は翼がよく画面に映されているということ。

それは日本が押されているということで、立ち上がりの注意しなければいけないと言われていたファウルを1つしてしまいFKを与えてしまった。 相手キッカーが蹴った瞬間、外れたとわかる程のミスをしてくれたおかげで日本は助かった。


『あー雨が降ってきましたね。すごく強い雨が降ってきました。はっきりと見える程の大粒の雨です』


急に天気が変わって、TV越しからでもはっきりと見える雨粒。 段々と雨脚が強くなってきて、画面が白くもやのかかったような状態になる程、激しい雨になっていった。

ほんの数分のできごとで、キックオフしたときのスタジアムと同じなのか疑いたくなる。 数分であっという間に土砂降りになって雷の音もハッキリと聞こえる程大きくなってきた。 時々雷の光も見えるようになり、雷がスタジアムへ近づいてきているらしい。

映し出される選手たちはまさに水も滴る良い男で、むしろ滴るでは済まされないぐらい濡れている。

翼の少しクセのある外ハネの髪が濡れて真っ直ぐになっていて、ユニフォームは自慢のウェット吸収機能を殆ど果たしておらず、 ただ身体にピッタリとくっついて腹筋が割れていると一目でわかってしまう。

まだ、アンダーシャツを着ていればマシなものの試合前は天気もよく気温は30℃を超えていたため、半数以上がアンダーシャツを着ていないようだ。


「なんか・・・エローい」


藤代くんは体格もよくて、がっちりってまではいかないけど引き締まってるのがわかるし、 山口くんは雨に濡れてるのに爽やかでかっこいいし、渋沢くんは男らしくてかっこいいのに、目は翼の姿を探していて、 やっぱり翼に惹かれてしまう。

代表の中でもチームの中でも小柄な部類に入り、「かっこいー!」じゃなくて「かわいー!」と騒がれているけど (本人はめちゃめちゃいやがっている)翼がイチバン男前だと私は思っている。

そりゃ自分の旦那だから当たり前だろう。コレで結人くんかっこいいよね、と言ったらマシンガントークを私と結人くんに浴びせると、はっきり言える自信がある。


『これは酷いコンディションですね。ピッチに水たまりがいくつもできています。これは試合が中止になる可能性もありますか?』

『そうですね。前節の浦和対鹿島の試合も途中で雷雨のため一旦試合を止めましたが、雨がおさまる気配がないですよね。 ピッチから観たら視界がかなり雨で遮られているはずです』


いつか読んだ新聞記事がフッと思い出される。試合中に雷が墜落して選手1人が亡くなったという忘れられない記事だ。

日本ではなくヨーロッパの国の試合だったはずだ。その試合もこんな天気だったのだろうか。 こんなに雨が降っていて、雷が鳴り響いて、ピッチには水たまりがたくさんできて、ユニフォームが肌にくっついて・・・。


『今日の入場者数が発表になりました。45,302名です。入りましたねー。ほぼ満員ですからね』

『こんな雨になっても帰るサポーターが少ないですし。素晴らしいことです。でも、雷には注意して欲しいですね。 なるべく屋根のある席に移動するかなにかしないと危険です』

『雷が落ちることも考えられますからね』

『選手は更に危険なんで、もう止めるべきだと思うんですけど・・・』


気付けば、試合は既に後半に入っていた。2枚のチケットは目の前のテーブルに置いてある。 1人で来るのが淋しいなら誰かを誘って来ればいいと、用意してくれたチケット。

こんな雨になるのだったら行かなくて正解だったのか、それとも満員計画に参加するべきだったのか・・・。

どっちにしろ翼の気遣いをムダにしてしまったのは確かなのだ。


『お?主審が止めましたね。試合を止めました』

『やっとですね。選手は早くロッカールームに戻って、身体を暖めた方がいいですね』


主審に促されるように小走りでロッカールームへ戻る日本の選手たち。 藤代くんが山口くんと笑っている。なにがそんなに楽しいのだろうか。

藤代くんはいつも本当に楽しそうにサッカーをしていて、こっちまでサッカーをやってみたいと思わせる。

翼がゆっくりと歩いていた。髪を後ろで結んでいたゴムを外し、右手でクシャクシャにして水を飛ばしても意味はなさそうだった。

翼の表情は藤代くんたちのそれより明らかに曇っている。点を入れられたわけではない。 勝っているわけでもない。どちらもゴールすることなく試合は止まった。

ピッチに誰もいなくなると画面が切り替わり嫌いなアナウンサーと解説が映し出される。

ちゃんと髪拭いてるかな、とか、ミーティングしてるだろうな、とか、まるで母親のようなことを考えていると携帯が鳴った。 この着うたは翼専用の着うただ。お気に入りの曲が数秒流れて静かになった。

ロッカールームだよね・・・?と1人呟くも急いで携帯を開き、メールを見る。“、スタジアムに来てる?”これだけの短い本文だった。 すぐに“ごめん、行ってない”と打って送信ボタンを押す。 返事が返ってくるかはわからないけれど携帯を握りしめて待ってみる。

あのメールを見て「来てないのかよ」と思っただろうか。少しだけ翼の反応が恐い。恐いものばかりじゃないかと笑えてくる。 それも翼が関わっていることばかり。いつから私はこんなに弱くなったのか。

携帯を握りしめている手が少しだけ汗ばんできたとき、再び同じ曲が流れた。さっきとは違い、ゆっくりと開いてみる。 “良かった。凄い雨だから心配してた。 来てないなら安心した”と絵文字1つない翼らしい本文でこっちが安心してしまう。 そして“試合が終わったら連絡する”と続いている。

こんなときにまで私の心配をしてくれているなんて思ってもいなくて、もう試合が終わるまで連絡はこないのに携帯を手放すことができなかった。

いつの間にかTV画面はスタジアムの中の映像に切り替わっている。 TVカメラはロッカールームまでは入れないようで、近くの広いスペースで身体を動かしている選手たちを映していた。

その中に翼の姿は見えない。 今までメールをしていたわけだから、カメラの前に出てくるなんてできないに決まっている。

もう試合なんて再開しなくていい。サッカーを観ていて、そう思ったのは初めてだ。

ユニフォーム一式を全て取り替えたであろう日本代表のみんながまたこのゲリラ豪雨の中でサッカーをしろ、なんて言えない。

早く試合終了だって言ってよ!と1人TVから目を逸らさずに文句を言っていると翼の姿が飛び込んできた。 後ろの髪を再び結びながらTVの画面の中へ走ってきた。画面のセンターが翼に合わせられる。

藤代くん、渋沢くん、横山くんと次々と声を掛けて、自分も身体を動かし始めた。翼はまだ、闘う気だ。


「まだ闘うんだ・・・」


翼はいつでも諦めはしなかった。なのに私は恐いと言って逃げてここにいる。私が罵声を浴びている訳でもないのに恐いと逃げている。

言われている本人が一番辛いはずなのに。

私が恐いなんて言える立場じゃないと気付くと、なんだか恥ずかしくなって車のキーとチケットを1枚、携帯も忘れずに持ち、家を飛び出した。

向かうは翼のいる国立競技場で、カーTVのチャンネルをサッカー中継に合わせる。 もう翼は映っていなかったけれど聞こえてくる声の中に翼の声が聞き取れる。

夜の雨の運転は好きではなかったが、出来る限りのスピードで向かう。まだ試合は再開していない。

近くの駐車場に車を停めてチケットを握りしめて走った。数人がスタジアムから出てきている。

もう残り10分くらいでこの雨だから帰る人がいてもおかしくない。 逆に私がおかしいくらいだ。残り10分でこの雨なのに今から入場しようとしている。

係員の目など気にせず走ってスタンドへ向かった。ポンチョなど持ってきていない。更に言えば傘さえも。

さっきまでTVで見ていた光景は実際に見るともっと酷くもやが見えた。スタジアムの照明に照らされて白く輝いている雨。完全にピッチは洪水だ。

ボールが転がると思われる部分の方が少ない。 ホーム側からは雨の音に負けじと日本コールが続いている。サポーターもまだ闘う気だった。

やっと立った。立場は違うが私も翼の闘いの場に来たのだ。

自分の旦那の名前と背番号が入っているユニフォームを着ている人を見ると誇らしさと恥ずかしさが混じった感情で満たされる。

うちに何枚ものユニフォームがある。それも全て翼本人が着て闘ったユニフォームたちだ。今度全部引っ張り出してみよう。そして飾っておこう。 きっと翼は「そんなことしなくていい」と言うだろうけど私の意見を押し通そう。

「山口くーん!」と女の子たちの声が日本コールに紛れて聞こえた。 山口くんの耳には届いていないとわかっていても「もしかしたら・・・」という気持ちを捨てきれずに今度は「若菜くーん!」と叫ぶ。 結人くんなら女の子の声に反応するかもしれない。その判断が正しすぎて思わず笑ってしまいそうになる。


「翼ー!!」


通路の手すりを掴んで叫んだ。私もここにいると伝えたい一心で。こんなに大きな声を出したのはいつ以来だろう。私の声は翼に届いただろうか。

そのとき拍手が大きくなった。雨は弱まっていないのに試合再開するの?とピッチに目を凝らすとジャパンブルーの戦士が1人ゆっくりとピッチへ近づいてきている。

背中に背負っている番号は4。


「・・・届いた」


ただ試合再開ではないとわかるのは翼の視線だった。ピッチではなく明らかに視線はスタンドに向けられている。

後ろに来た柾輝くんと二言、三言言葉を交わして柾輝くんもスタンドに視線を走らせている。 精一杯手を伸ばして大きく振ってみる。ホーム側でこんなことをしていたらTVに映ってしまっているかもしれない。

柾輝くんが翼の肩を叩いて私の方を指差した。気付いてくれたらしい。 翼はきっとニッと笑っているだろう。遠くてハッキリとはわからないけれど、そんな気がした。

翼が急に拳を突き上げて、そのまま左胸を軽く叩く。いつも翼がゴールした後に見せるパフォーマンスだ。 去年は薬指にはめられていた指輪に口付けをするパフォーマンスだったけれど、今年から一切のアクセサリーが禁じられたらしい。 テーピングで隠してもダメ。 ミサンガならいい、という情報を得て、翼に私が作ったミサンガをプレゼントした。

それからだ。ミサンガが付けられている左手を突き上げ、胸を叩く。少し長い紐がユラユラと揺れる。


早く切れることを願うはずのミサンガだが、ずっと切れなくてもいいと思ってしまう。

「翼くーんッ!」と、どこからか女の子の声が聞こえた。翼、アイドルみたいだなとフッと表情が緩む。


その時に自分の頬が強張っていたのだと知った。

翼と柾輝くんはまた姿が見えなくなった。



いっこうに止む気配のない雨。試合中止の文字が浮かびあがっている大型ビジョン。

とりあえず、まだ帰りたくはない。最後にここを出たい。熱狂的サポーターよりも遅く出る。 そう決めた私は今更だけど空いている席を探し始めた。






雨声、激しさを増して




151008 家長碧華
 タイトル提供:てぃんがぁら